高野山金剛流流祖・曽我部俊雄大和上は、明治六年十月二十日阿波国の産。切幡寺釈智湛師の門に入り出家。天野山金剛寺一代。昭和四年初代詠監職に就任し、それまで各流の寄せ集めでしかなかった金剛流御詠歌を整備し、理論的根拠を充実して現在に用いられる記譜法を定め、新曲も数多く発表せられた。また金剛界曼荼羅の理念による成仏道たる金剛流詠歌道を確立せられ、一宗の総意により金剛流流祖と称されるに至る。昭和二十四年十月七日、紀州田邊高山寺にて遷化。
金剛流行者たる者は歌唄いではない、単に声の美醜や節の巧拙のみにこだわって、節自慢喉自慢に陥り、他人を誹謗する如きは、詠歌道行者の真精神を見失っていると言わねばならぬ、と諭されたと伝えられています。まさに心に留めおかねばならない言葉です。
流祖俊雄大和上辞世の御詠歌
「みおやよりさずけたまいし三昧をまもりつづけて我とわにゆく」
高野山奥之院・金剛流流祖墓碑
