続いて龍光寺に参拝。ここはまだ小さな庵が一つ建っているだけであるが、裏山には元の時代に作られた十数体の磨崖仏群がある。一部破壊された跡も見られるが未だ発見されてないものもあるという。近年中国政府によって最重要文化財に指定されており、月満師はここに龍光寺の伽藍を復興しようと尽力しているところである。現在二階建ての僧院を建築中であったが、何年かすればここにも見ちがえるような大伽藍が聳えているのであろうか。夜、地元の名士に招かれ夕食を共にする。
二十九日杭州市街を観光。西湖南岸にある雷峰塔を訪れると、雲南省より来たという篤信の青年が待ち構えており入場料を布施してくれると云う。車椅子の松本大和尚に対面して五体投地の礼を執られた。話を聞くと雲南省の仏都鶏足山の関係者であり、新しく鋳造する梵鐘に尊勝陀羅尼の梵字を刻みたいとのこと。後日書いて渡す約束をして別れる。
三十日西冷印社見学、西湖で舟に乗り穏やかなひとときを過ごす。昼は道教の寺院である玉皇山福星観に参拝して精進料理を頂く。片付けと全ての予定を終了して、三十一日帰国の途に着いた。
中国の仏教は国家による厳しい統制下にあるのかと想像していたが案外活発に活動されており、文化面からも観光面からも復興が奨励されているような感じを受けた。現在公認されている仏教は浄土宗と禅宗色が強い顕教であるが、今後は密教に関心を持つ人も増えてゆくであろう。殊に梵字や真言に関しては、中国経由の悉曇が伝承されている日本への期待が高まっていると感じた。
(この文章は『高野山時報』平成30年7月21日号に掲載されたものです)
今春慈雲尊者生誕三百年を記念して大阪府立近つ飛鳥博物館で「慈雲尊者と高貴寺展」が開催された。そこに出品されていた畳峰法護宛の書簡(高貴寺蔵)には、西湖と白堤の景色が描かれた箋紙に余白を埋め尽くすようにして尊者の筆跡が認められていた。月満師は展示されていたこの書簡を見て不思議な因縁を感じ、今回の梵字書法展を何としても成功させたいとの決意を新たにしたと云う。
二十七日には杭州随一の古刹である霊隠寺に参拝した。中国禅宗五山十刹の一つで、山の斜面に壮大な殿堂の数々が立ち並んだ大伽藍である。参拝者も多く生き生きとした信仰の息吹が感じられる。またここは弘法大師が福州に流れ着き長安に到る途中に参拝したと云われる聖跡でもあり、日中友好三十年を記念して建てられたという空海大師像の前で御法楽を捧げた。
二十七日午後より杭州仏学院にて松本大和上による梵字書道の特別授業が行われた。これもまた今回の大きな目的のひとつである。普段より仏学院の生徒にとって書道は必須の科目であり毛筆を扱うことは手慣れた業であるが、書法として梵字を学ぶという機会は全く無かったようである。初めての体験に戸惑っているように見受けられる。しかしながら書籍等は比較的自由に手に入るのであろうか、日本の参考書を持参し見よう見まねで練習してくる生徒もいた。また学院生ではないが情報を聞いて遠方より受講に駆けつけたという面々もあり、関心の高さが伺える。
つづく→
二十六日午後一時からの開幕式では、主催者である龍光寺・朱懐雲(釈月満)師が来場者に歓迎の挨拶を行い、この梵字書法展の開催に到る因縁を語った。次に学術支持団体である西冷印社が出版する西冷芸叢編集長・郭超英氏は、「梵字書道は仏教の枠内に止まるもので書道的な価値は大きくないと考えていたが、今回の展示を見るに至って実に表現豊かで芸術的価値が高いものであると認識を改めた」と語った。また天台宗仏学院常務院長・釈観初法師は、「梵字は梵天を起源とし仏教の経典は梵文より翻訳されたものである。天台宗仏学院にも梵文の授業はあるがこのような梵字書道は初めて見た。今後もこのような展覧会が行われることは国内の学者にとって大変に有用なことである」と語った。
松本大和尚は、「梵字はそもそも古代の中国から日本へと伝承され、私は八十年余りずっと梵字を勉強してきた。此度はこの機会を通して梵字を日本から中国へとお返しできる事を大変嬉しく思う」と述べられた。小衲は悉曇傳幢会を代表して当会設立の経緯を述べ、現在二百人程の会員が在籍している中で、中国から二名の僧侶が学びに来ていることは正に奇特なことであり、この朱懐雲(月満)師と今回通訳役をしてくれている楊盛(照常)師が今後の中国悉曇の復興と発展に寄与してくれることを願うと挨拶を述べた。
泰山大佛寺の釈玄泰法師は、「密教にとって梵字は避けて通れない重要な物であり、松本大和尚が高齢にもかかわらず中国へ来て頂いたということは正に皆さんの幸運である」と祝意を述べられた。
講習の終わりに受者の方から由下(ユリオリ)の音動が曲の場所によって違うのかという質問がありました。これは当に核心を突いた質問で、講習中にも少し触れました「ユリは必ず下から上に上がって終わるべきか」ということと同様、高野山の声明の最も特徴的な箇所の一つでもあります。
本来なら丁寧に時間をかけて御説明したいところであったのですが、簡単に結論が出る問題でないのと、徒に時間ばかりかかってしまってはいけないと怯んでしまい、些か緊張もあっておざなりな回答になってしまったことを後悔しています。
前述の通り現在用いられている声明はみな葦原寂照師の系統と云ってしまってもいいようなものですが、その中でも高野山だけは独自の伝承を持っているものと思われます。いうなれば地方々々の声明というより「高野ネイティブの声明」と「高野山以外の葦原声明」のような感じかも知れません。
今や高野山の声明が広く地方や他の本山にも浸透して来ている状態なので一概には言い難いですが、高野山系以外の声明(そんなものは無いという考え方もできると思いますが、今此処では主に鈴木智弁師や岩原諦信師の系統を指します)では、由下を本当に下げて終わることはありません。
これは博士が変化しても主たる音に戻ってくることが出来なくなっては困るので調整しているものと思われます。楽器を使わず耳だけを頼りで唱えている場合、一音上がって下がる、又は一音下がって上がる分には良いのですが、二段階以上変化すると段々と元の音に戻ってくることが困難になってくるからです。
対して高野山では意識的に一つ目のユリより二つめを下げて由下を唱える場合があります。後讃の四智漢語・心略漢語の頭や中曲の善哉の頭が代表的です。その一方で称名礼や礼仏頌・教化等に出てくる由下では下ることはなく、実際には一旦もち上げてから下げたことにします。表白の乙由の場合は人によって両様用いられます。
下げる方が博士からみて理に叶っているようですが、これをやると変化の多い曲の場合その後の音の扱いが(元の音に戻ってこられるか)が途端に難しくなります。しかしこれを克服して上手く戻ってこられたら流石お見事ということになります。
またいつの頃からか徵角同音という口伝になっているので、徵の下がった音(反徵)は角よりも下がってしまうことになるという矛盾を孕んでいます。
岩原諦信師は現行の声明が理論とかけ離れているのを出来るだけ修正し、博士(楽譜)通りに唱えるように努力された方でしたが、由下に関しては一貫して下げることはされていません。
これらの解釈の違いによって種々のバリエーションが産まれ、声明は教える人によって全然違うからということになってきます。
でもこの理屈を判っていれば、そんなに違うことをやっているのではないのだということも納得して頂けると思われます。
今の由下の場合は、頭や表白師の独唱なら已達の人であれば自由に調整してそれなりに唱えることができますが、大勢で唱えるとバラバラになること必至ですので、そこに申し合わせでも統一見解を出してやる必要があります。
ここが一番の難点であり、中曲善哉の如きは名所(聴かせ処)であるにも関わらず、合わないからと省略されていく傾向にあります。これはなんとかしたいところです。ちなみに高野節(略節)には由下はありません。
疑問を持たれた方がここを見られるかはわかりませんが、自分の脳内整理の為に思いつくままを記してみました。長文お読み頂きましたらありがとうございます。もし識者の方の御意見などお寄せ頂ければ幸いです。